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歴史と風情ある庭園を楽しむ、二宮家庭園特集

二宮家の歴史

趣と歴史ある日本庭園を有する、豪農・二宮家

 

新潟県北蒲原郡聖籠町にある、二宮家。

新発田藩領蓮潟興野の名主職、のちに代々庄屋格に遇した家柄で、現在の当主は9代目にあたります。

 

弁天潟を見渡す敷地は約3000坪、建物の面積は建坪で約250坪ある日本家屋で、明治8年に一度は全焼したものの、再建し、今でも家族たちが暮らしています。

 

二宮家が有する「静勝園」と名づけられた日本庭園の前には広大な弁天潟が広がり、母屋のお座敷からは庭園と潟を一望できます。このような庭を持つ住宅は、現在の日本では類を見ないと言われています。

日本庭園から弁天潟に張り出した「涼み亭」を含む建物15棟は、平成18年11月に国の登録有形文化財に指定されました。

 

日本庭園に隣接する「バラ園」は、当主の夫人が20年前から趣味で始め、毎年その規模を拡大しています。10年前から5月~6月にかけて毎年期間限定で日本庭園とバラ園を合わせて一般公開しています。

新発田・溝口藩と二宮家

 

溝口藩の新田開発に関わっていた二宮家は、藩の「名主」、のちに江戸末期には「庄屋格」に昇格。苗字帯刀を許される「大地主」となり、市島家や白勢家と同じく大地主として名を連ねることとなりました。

しかし、溝口藩の財政難に巻き込まれ、多額の才覚金を取り立てられた二宮家は、ほとんど財産を没収されるほどの徴収を余儀なくされました。

その後、明治維新以降に、再び大地主として復活することができました。

 

二宮家は明治8年(1875年)に落雷により家屋が消失、その後9年かけて家屋を再築し、庭園を造成しました。現在残っている日本庭園はこの時に造成されたものです。

その際庭園は、溝口藩お抱えの庭師・大倉槙平によって作られ、「静勝園」と5代目当主が名付けました(名の由来は不明)。

約400坪ほどの日本庭園ですが、前面に見える広大な池「弁天潟」と、その向かい側の松林を一体として見た場合に庭園の長さや奥行きがあることから、スケールの大きな庭園として評価されています。

人とのつながりで価値を深めていった二宮家

 

二宮家へ、様々な著名人が来訪した記録も数多く残っています。

東京や遠くからは京都など…もちろん当時は交通の便もあまりよくありません。まず信越線で新潟駅へ。そこからは船で豊栄・葛塚を渡り、さらに人力車に乗って二宮家へ行くという、かなりの長旅でした。

そうまでしてでも「二宮家に足を運びたい!」という強い想いを感じます。

 

著名人たちは宿泊しても費用を支払うことはなく、その代わりに、庭園を眺めて、詩や漢詩をつくり残していったそうです。二宮家としては大変な光栄とし、それを額に入れて座敷に飾り、庭園に箔をつけてもらったと家宝として大切に扱いました。

 

【二宮家を訪れた著名人一覧】

・京都東本願寺 門家老 下妻頼世

 

・京都西本願寺 高僧 島地黙雷

 

・京都東本願寺 門跡 大谷光勝上人

 

・京都東本願寺 門跡 大谷光演法王

 

・下田歌子(歌人)

明治30年、新潟市に愛国婦人会設立の運動に来た際に、二宮家へ来訪。

明治天皇に仕え、のちに東京・実践女子大学を創設。

 

・溝口家12代・源 直正

 

・相馬御風(詩人)

糸魚川出身。大正時代、蓮野小学校校歌作詞のため二宮家へ来訪。

 

・慶應義塾大学塾長 小泉信三

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